最近思うこと

私が東京を離れて、いっしょに戦ってきた仲間とも離れ、ひとり地元に戻り、これまでの経歴を投げうって、再び一からやり直そうと決めて取り掛かって半年が過ぎ、ふと振り返ったとき、自分が、自分の下した決断に対して、まったく後悔をしていないかと自問すると、その答えは、どうなるのかと考える。

これまで一緒に仕事に励んできた同志が、いろいろな自分の可能性を信じて、みな様々な道を歩んでいるのを、最近では簡単にインターネットを使って知ることができる。彼らの新しい道が、きっと素晴らしいものであってほしいと願う。留学や子育てや新たなコミュニティーへの参加など、みんな自分が大切に思っていることをしているのを見ると、自分も頑張らなければならないと思う。

自分が新しい選択をする、これまでと全く異なる道に這入るということは、新たな人生を手に入れると同時に過去の延長戦にあったはずの人生を棄てるということでもある。棄てるということは簡単ではない。なぜならその選ばれなかった人生を遡って辿っていけば、その過程の苦労や喜びや、その後の人生の萌芽となるべき経験や、人とのつながりが、嘘偽りなく纏綿と連なっているからである。

新しい人生を歩む際には、その棄てられた人生で手に入れることができたかもしれない何かや責任を背負って進んでいく覚悟が必要だと考える。これまでのものはこれまでのものと、完全に切り離してしまえば、これまでのものは、ほとんど無かったに等しいと同様の経験となってしまう。自分が新しい道を選んだならば、その道が正しいかどうかということはわからないのだから、進んでいくしかないのだけれど、進むにあたっては、過去を振り返って懐古趣味に走ったり、慢心したりエゴに駆られたりすることなく、かと言って過去をすべて放棄するのではなくて、これまでの人生で得てきたものを、それらすべてを背負って、決して振り返ることなく、しかし忘れることなく、その重さを意識しながら進んでいくことが大切だ。それが、自分のできるせめてもの自分への償いになるのだと思う。

 

無になることなどなかなかできない。どうしたって周りの優秀さに引けを取ることはあるし、悔しいこともあれば、自分の選択を恨んだりすることだって出てくる。隣の家の芝生は青く見えるし、自分が利用されているのではないかとか、自分がふがいないとか、いろいろな負な考えがぐるぐると頭の中を渦巻いて離れなくなってつらくなる時もある。そういう感情が自然と溢れてくるのを、無視して何も感じなくなることは、まだ自分にはできそうもないし、これからも、いろいろな人と出会っていろいろな環境で立ち振る舞わなければならないことを考えると、俗世にあって完全に無の境地に浸ることは不可能と思う。

自分にできることは、そうした感情を、自然に溢れてきてしまう不可避なものと認めて、されどそうした感情に流されることなく流してしまうことだけだ。感情に自分の人生の時間を支配されることなく、嫌なことや嫌な気分に己を預けることなく、それはそれとして、どこかに行ってしまうまで待つ。辛抱といえばそうかもしれない。渦巻く激しい感情の中にあって心の中を平静に保つということのいかに難しいことか。

仕事だって同じかもしれない。僕は、周りがどうあれ、自分の納得のいくところまで考えないと気が済まない。自分が納得いくところまで考えて、初めて自分の考えを述べることができる。適当であったり神経質であったり、自分のことが良く分からないが、自分が大切にしているものがたぶんあるということは、何となく分かる。

かつての時のように、大学院のときのように、極端に猛烈で寝る間を惜しんで何かをするという体力は、もうあまりないしやりたいとも思わない。あの時は、何が大切で何をやらなければいけないか、分からないままに、努力それ自身を自分の目的にしてしまっていた。頑張ること、頑張りすぎることを、自分の目的にし、努力それ自身を意義にしてしまっていた。そうやって自分を追い詰めてしまうことは良くない。努力はあくまで手段であって、目的ではない。努力を目的にしてしまうと、他人にも同様の厳しさを以て接してしまう。他人を許せなくなってしまう。それは自分を追い詰めてしまうだけで、また孤立してしまって、八方ふさがりになってしまう。努力は何かの目的あってのものだ。それ自身を美化してはならない。

 

それでもたぶん今の自分は、周りから見れば無意味に頑張っているように見えるかもしれない。なぜそこまでやるのかと思われるのかもしれない。それは自分が好きだからやっているのであって、やらないと気が済まないという性質のものであって、他人と比べてどうのとか、そういうものではない。だから、それが自分にとっての自然なのかもしれない。僕はそれが、己の器の大きさであって、その人の生きざまだと思う。自分が振り返って自分の行動を見たとき、そのやり方がそのまま生き様であって、自分で納得できるかを考えたとき、納得できなければ後悔すると思う。だから、後悔のないよう、自分の納得できるところまでやるということが、自分にとっての生き方なのだろう。

色々な人生の道があって、張り巡らされた道筋の一本一本の正誤を判断することは、あまり意味がないと思う。同様に、過去を振り返ったり未来を見すぎたりして自分の歩んできた道を評価することもあまりしたくない。そうではなくて、どのような道であっても、その人にしかできないやり方があって、それがただただその人の生きざまであり人生である。道の過程に苦悶があって壁にぶつかって、その人の姿勢が試されて、それに真面目に己のやり方で向き合っていって、一つ一つ超えていけば、少しづつ高いところに行ける気がする。そうして目の前のことに取り組んでいけば、過去を悔んだり周りをうらやんだりしている暇はないはずだ。やるべきことは目の前にあって、それ以外にないのだから。だから、目の前の道を信じて、とにかく牛のように進んでいくこと。これが僕に今できる最善の方法なのだと、そう信じないといけないと思う。