つれづれ

遠回りした方が良い、その分見える景色がある。

それには条件がある。迷わないこと、遅れないこと、途中で死なないこと。

遠回りするのは散歩の達人がすることだ。普通の人は、普通が一番いいに決まっている。

私は遠回りしすぎて疲れてしまった。その上迷ってしまったようだ。向こうに正しい道があるのに、どうにもそこにたどり着けない。あるのは分かっているのに、もう戻れないことも分かっている。道を歩くのは時間がかかる。時間には限りがある。もと来た道は道なき道、戻ることはできぬ。はたりと立ち止まってみると、前途も見えぬ。立ち往生してしまう。

自分探しと軽々と歩み始めた道のりは、次第に雲行き怪しくなり、行けども行けども堂々巡り、また前来た道、同じことの繰り返し。そうこうしている数年間は、その時間そのものが自分であった。探すことなく見つけた自分はたいそう惨めで疲れ切っている。

 

私は自信がほしかった。自分が自分ではいけないと思っていたのだ。自分に自信が持てないひとはざらにいるかもしれないけど、自分の存在を否定しなければならない人は精神病院に行った方がよい。辛い人生を歩むことになるのだから、早めに治療した方がよい。

思うにそれに尽きる。私は自信がほしかった。私は平凡以下の人間で、平凡以下の人間はなぜ生きているだろうと思った。私の周りの人間はみんな本当に私より価値のある人間に思え、自分は本当に価値のない人間にしか思えなかった。私はそこにいるだけで済まないと思った。列に並ぶことができなかった、なぜなら私が並ぶとその分他の人に迷惑がかかるからだ。衆目の監視を受けるのが本当に嫌で嫌で仕方がなかった。周りの人が笑っているのではないかと思った。自分の存在がぎこちなくて仕方がないからだ。

そんな病的な精神は、克服できると思っていた。私が価値ある人間になるにはただ一つ、有名になるか顕著なことを成し遂げることだと考えた。そうすれば記録に残り、それが自分の生きた価値になるではないか。単純ではあるが、極論すればそうしなければ生きている意味がないとすら思えたのだ。

だから私は勉強した。勉強してまずは学歴を手に入れたいと思った。学歴。学歴さえ手に入れればきっと自分は変われるはず。いい大学に入り、自信に溢れ、人を圧倒するカリスマ性を手に入れ、万事が順調に運ぶ。そういう夢のようなことを本気で考えて、そのためには勉強しなければならないと思って、我武者羅に勉強に励んだ。死ぬ気で勉強した。自分を克服するために。偉くなるために。劣等感をはねのけるために。

私はその甲斐あって手に入れた。由緒正しい学生証。見る者に対して優越できる学生証。私は偉くなった!私の学生証が有ればこれでもう馬鹿にされることはない。そう思った。でも変わらなかった。私は私であって、学生証は学生証。大学は大学。私は私。私はいつもの私。それでも少しは安らいだ。私は二大巨頭の大学に在籍しているのだと!でもそれはやめた方がいい。変なプライドだけが先行して、変な自尊心ばかり育んでしまう。上を見ればきりがない。私よりももっともっと優れた人はいっぱいいる。みんなを見ると私などすぐかすんでしまう。霧のようなわたし。霧のように消え去ってしまいたい。そんなことばかり考えるようになった。

そんな私が次にすがったのは、努力そのものであった。努力する。それは、懸命に生きるということだ。即ち、生きることは努力することなのだ。何を?学問だ。名誉だ。肩書だ。私をはねのけるには、より高くより権威のあるものがないとダメだ。そのためには努力しなければならない。全てをなげうって努力しなければならない。私のゆがんだ心は、努力という言葉の清らかさに圧倒された。全てをなげうつとは、全てを犠牲にすることだ。つまりすべてを断固拒否することだ。人間関係も拒否し、遊ぶことを拒否し、勉強することが全てだ!今を生きるとは、いままさに努力するということだ。今というのは今であり昨日でもなく明日でもない。今日は二度とやってこない!

そんなことを考えて毎日勉強にまた励んだ。結局人間関係が苦手だから、私は勉強の世界にはまっていったのだ。スポーツクラブは好きで入ったものの、そこでは私は劣等感しかない。私はなんでこんな運動神経がよくないのか。人は認めてくれるけど、認められない自分がいた。遣ればやるほどその気持ちは強くなり、少しずつフェードアウトしていった。フェードアウト。私がこれまでの人生で何度もやってきたことだ。続かないのだ。なぜならやってもやっても、ここにいてはいけない人間なのだと思えて仕方がないからだ。

私は勉強の甲斐あって学会賞を受賞した。私の名前が残った!私の名前は記録され、ずっとこれから残っていく。だからなんだというのだ。私は何も変わらない。私は肩書をぶら下げて生きているわけではない。歩いている間、止まっている間、私はやっぱり素の私で、それ以上でもそれ以下でもないただの人間である。その素の人間としての私がどうしても変われない。変わることが出来ない。

それは結局、私の人との交流の下手さにあると、最近気づき始めたのだ。私はいくら肩書をとっても、いくら名誉のあるところに行っても、結局交際下手のわたしはわたしであり続けるだろう。全ての源泉はここにあるのだ。会話が下手、下手だから嫌い、二度と苦笑されたくない、嘲けられたくない。人が笑うと、私が笑われているように思った。被害妄想かもしれないが本気なのだ。私は会食が嫌いだった。私の声など、私の話など、だれも聞きたくないのだと、無意識に思っているからだ。

つい先日、私が忘年会にいったとき、私は病気の様だったといわれた。不健康そうだったと言われた。また飲み会では、いつも辛そうだといわれた。疲れているといわれた。確かにそうかもしれない。でもそんなつもりが一切ないのにそういわれると、悲しくなる。大したことではないかもしれないが、消え去りたくなる。私はここにいてはいけないのではないかと強く思う。存在してはいけない存在なのだとすら思う。

こんな経験ばかりを積んできた。飲み会ぎらいになるのも無理はなかろう。厭なことしかない。自己嫌悪に陥るか、疲れてると言われるか。どうすればいいのか。参加しないのが一番いいに決まっている。孤立?そんなこと、参加したって孤立するのだから、一緒だろう。こんなことを繰り返して、私は段々人付き合いを避けるようになった。ひとが怖いというより、そういう場が怖い。人は好きだ。人の顔色さえ窺わなければ。私は嫌われるのが嫌だ。嫌そうにされたり、嫌な気持ちにさせるのが本当に嫌だ。いやでしかたがないけど、それが人間関係なのかもしれない。

私は努力はしてきた。あさっての方向に全力疾走して、何かをそのたび失ってここまできた。遠回りをしてきた。全力で遠回りをしてきて、もう後に戻れないところまできた。この先どこに走る?どこに向かう?