自分は自分であるということ

私は人混みに居るのがストレスでたまりませんでした。今でもそうですが。しかし、自分を捨てることで、それは少しましになるのではないかと思うようになりました。これまで私は、外界に映るものを、自分の倫理観に照らして解釈し、それが正しいのかどうか、正しくなければなぜ正しくないことをするのか、一人で葛藤する思考の癖があったように思います。

その癖が、一概にいいことなのか、悪いことなのかはわかりません。ただ、そうすることで、何かを常に責めている状態に陥っているということが、却って自分を責めることになるのではないか、苦しむ必要のないところで苦悩を背負っていることになるのではないかと思うようになりました。

行人の中で、自分の心と戦うことが、どれほどに消耗する結果になるのか。自らの高い倫理観が生む自らの行動のちぐはぐが、その結果皮肉なことに、他者の目には、とても不誠実な人間に映ることになる。その矛盾に二重に苦しむ人間の苦悩を描いている様子があります。高尚な精神はそれ自体立派なことではありますが、それを他人に、外の世界に求めることは、余りにも壮大すぎて、しかも何も生まれないということ。その結果自らの心と戦って益々摩耗していくということ。そこで生じる苦しみが自分には何に因っているのか分からず、得体のしれない解決しようのない所でもがくことになるということ。

私は母の性質を受け継ぎたいと思っています。母は寛大です。他者の世界に介入しないことが、いい意味で自己の中で完結するということが、精神の安定に大切です。

他人の心をとやかく言う権利は誰にもないということを、私は理解していなかったのです。些細なことでイライラしてしまうことは、実のところ、他人の心に半分入って己の倫理感を押し付けようとしていることです。それは無意味な努力だということを、一つの諦めとして認識することが大切なのかもしれません。私は少なくとも、そうした諦めの境地に達したいと努力していこうと思います。母はよく嫌みを言います。嫌みは、割り切りから発生する行動です。他人に己をぶつけるのではなく、あくまで他人であるということを以て、自分の基準にしたがって批評するということです。嫌われるかもしれないが、それは生きていくための術かもしれません。生きづらい、と思っている人は、外界のすべてを、自らの価値判断の基準で変革しようという正義の人です。自分に課している崇高な戒律からして、世界が余りに世俗的で汚辱にまみれていて、それに耐えることができない人なのです。だから、生きづらいと思うその気持ちは、そう思えば思うほど、自分の精神の透明なことを示しつつ、世界との乖離を理解できない、とても純粋な精神の顕れなのです。

それは悪いことではない。悪いことではないが、その原因を探究すればするほど、乖離は益々激しくなり、世界から離れ、厭世的な人格となり、傍目からは反社会的に見えことになります。出家するなど俗世から離れ、己の探究それ自体を目的とした人生を歩む人となる覚悟があれば別として、私たちは、私たちが忌み嫌っているかもしれない世界の中でしか生きていけない。幸せになりたいと、人間であれば考えている、そのために、高い徳を自らに求めた故に、幸福は離れていく。