掃除機のはきだし口

ある程度時間が経ちました。かつて私が働いていた仕事は、それはハードなところで、家に帰れればうれしい、4時間寝れれば幸せ、というような働き方をしていました。

たとえ毎日2時間の睡眠であれ、それが何等か報われるだろうと思っていれば、体力的な苦痛はそこまで辛いことではなく、むしろ苦しんだ分だけ後悔なく良いものができるはずだと考えれば、心地よい痛みがむしろありがたいような気持ちでした。

 

2年で部署を離れ、違うところで働き始めました。異動です。

忙しさは、前部署に比べれば大したことなく、また仕事の難易度も低く、頭を使うことも稀で、ここは一体どういう所なんだろうと。

これが閑職なのか、と。

そういう目で見ると、周りもそういうところに”飛ばされて”来た人が多いのか、私もその一員なのか(のちに実際そうだったことが判明するのですが)、と、生来の穿った目が考えてしまうのです。良くないことに、そうすると、見下してしまう自分の悪い癖がでてしまうようです(みんなそういうところ、あるでしょう。ないのかな。それともあっても隠しているのか。私は隠しきれないのでいつも自己嫌悪に陥ります)。

 

私は仕事とは生きることだと、生きることとは社会的に貢献することであるという観点から、その社会的存在の手段としての仕事と生きることを半ば同一に考えてきました。そして、その”程度”も重要であると。何かを残す、その痕跡が大きければ大きいほどよいと。そこには功名心が見え隠れするのですが、エゴは一種の生きるエネルギーでもあるので、そこは蓋をする位で納めておきます。

 

閑職、ヒマ、というのは、勿論周りの目が辛いということもありますが、そもそも何かを成し遂げたいという気持ちに無力感が与えられ、エネルギーの行き場がなくなることが一番辛いのではないのでしょうか。干される。スポーツでも何でもそういう時期があります。私は初めてそういう状態に直面しました。サッカーでもよく、控えとして重要な選手とか、立場を受け入れる、という言葉がありますが、すでに先がある程度見えた人間はそうすることができるかもしれませんが、まだ途上、経験を欲している将来性ある人、向上心のある人ならば、その環境が何も自分に与えてくれない、少なくとも多くを与えてくれないとするとき、自分の貴重な時間を無駄にしてしまうのではないか、特に周囲の人が、向上心にあふれ、その気持ちに応える環境にいて、益々成長しているのを見るとき、危機感と焦り、これまで自分にはなかった感情が、初めて芽生えます。

 

マスターキートンにこんな言葉があり、向上心さえあれば、人はどこでも成長できる、というものです。

「人はどこにいても勉強できる。それがたとえ便所であっても、勉強したいという気持ちがあれば、そこで学ぶことができる。」

 

「人は強制収容所にぶち込んで全てを奪うことができる。しかし、与えられた環境でどのようにふるまうかという精神的な存在としての自由だけは奪うことができない。」VEフランクル

 

このような珠玉の言葉で自らを奮い立たせてきましたが、いざ環境に直面すると、まずは失望、そして怒り、最後に無力感、これらが襲ってきます。どうすることもできない日々。生産性の無い日々。そういう時には本を読みます。私はそうする人で、友人には、例えばいろいろ動いて、職場を変えるためになんでもするという人がいますが、私は人間関係に負い目を何となくもっていて、そうする自信がなく、まずは環境を受け入れてしまいますが、その一方で本を読み、何か打開策はないか、自分に今できる最善策は何か、考えるようにしています。