飲み会

もっと尖れとか、自分を主張しろと言われる。

「君の前歴を考えて、君の能力を何に発揮させればいいかわからない」

なんて言われる。

僕は人と話すのが苦手、人の輪に入っていくのが苦手、軋轢が苦手。

いろいろな苦手がある。とても多い。

そしてそれにずっと苦しんできた。これからも苦しむのかもしれない。

ずっと言われてきたことだし、変えたいと思ってきた自分の性格でもある。

そして変えられない性格でもある。

そして、言われ続けて10年くらい。言われると辛い。自分の存在を否定されている気持ちになる。

やっぱりそうすると、なんで生きているんだろう、なんで生まれてきたんだろう、とか考える。

僕が自分のやり方で頑張っていることが認められない。

高瀬課長もそうだった。一生懸命やったって、報われない。

エリナーリグビーを思い出す。

誰も救われなかった。そうして死んでいった。

そんな人に価値はあるのか。

 

無。

 

生きるということは修行だと。

生きるのがつらいことは当たり前のことだと。

それを恨んだところで何も始まらない、何も解決しないのだと。

自分の正しいことをしていくことが大事だと。

 

救いというか悟りというか、そういうことはずっと考えてきたつもり。

理解されないけれども。

色々な考えを巡らせても、飲み会だととても落ち込む。

自分など・・・と考える。

ずっとその繰り返しなんだと。

 

世の中、たくさん苦しんでる人がいると思う。

そして、自ら死を選んでいく人もたくさんいると思う。

そうやって苦しんでいるひとが、理解されない苦しみを共感できるような、集まりがあれば、どれだけ楽になるのかと思う。

苦しみは続き、悩みは解決されない。

それは、その人が、僕を含め、一生、戦っていかなければならない性質かもしれない。

えてして器用でない人間は茨の道を歩むことを余儀なくされる。

人は公平ではない。

それに気づくのが第一。

それを認めるのが第二。

それを乗り越えるのが第三。

でもどうやって乗り越えたらよいのかわからない。

諦める?

自分が義しく行動することが大事?

真面目過ぎるのは良くないのか。

頭の中はパニック。

真面目であれと言われ、真面目過ぎるとよくないといわれ、でも真面目しかとりえのない人だっている。

真面目な人が損をする。

損得で割り切れるものでないとしても、、、考えざるを得ない現実世界がある。

 

 

思ったこと

自分の境遇を考える。

自分が過去出会った人たちが、輝き、広い世界に羽ばたこうとしている。

海外

昇進

結婚

うらやむような、新しい人生の次のステップに足をかけている。

翻って自分をみる。

何も持っていない。何もできていない。何も成し遂げていない。

 

今を時めこうとしている同期、同窓たち。

彼らとは、かつて、たしかに同じ土俵に立っていた。

なのに、大きく差をつけられてしまった。

今の自分は箸にも棒にも掛からぬ。

 

でも後悔はしないだろう。

僕は努力はしてきた。

自分にできることを、精いっぱいやってきた。

それがどれだけ今に結びついているかは分からない。

それでも、とにかく、自分ができる範囲で悩んで苦労して頑張ってきた。

それで、周りから認められなくても、

友達が少なくても、人間関係が不得手でも、

たぶんあれ以上頑張っても、何も今、変わっていないような気がする。

 

今の自分以上になったろうか。

 

今がどんな状態であれ、どんな状況であれ、

一生懸命頑張って生きてきたのならば、

もう、それでよいと思う。

諦めかもしれない。

でも、頑張って、できないものは仕方ない。

そして残酷なほど早く時は過ぎていく。

過ぎていった時を悔むことが一番よくない。

 

何が僕にできることなんだろう。

毎日いろいろなことを考える。考えては、忘れる。

考えたことをすべて記してはどうか。

全てを無駄にせず、一度思ったことを、

とことん考えてみる。

それが自分にできる一番大切なことかもしれない。

そうしたら、過ぎ去る時間を悔いなく見送ることができるかもしれない。

 

考えること。

考え続けること。

それが研究であって、自分にできる、自分の生き方なのかもしれない。

仕事か私生活か分からないが、日常で朝起きてもやもやし、夜になると疲れてもやもやし、そうしてずっともやもやした白い霧のような倦怠感が頭の中と心の中をぐるぐるぐるぐる渦巻いて、落ち込んで、何もしたくない。

なんだかそういう時期が定期的にくる。

来ては去る。

そういう時期。

 

 

新年と人間

新年を迎えた。

平成29年が終わり、平成30年が始まる。

そして己の30歳の節目でもある。

20代が終わってしまった。30代が始まる。どんな30代にしようかと考える。色々な30代がありえる。どんな30歳になりたいか。

最近は、過去は可能性であり、年を追うことは、可能性をひとつづつなくしていくことなのではないかと感じるようになった。

自分が高校生の頃、どんな20歳になりたいか、色々な可能性があった。医者になることもできた。公務員になることもできた。エンジニアになることもできた。外交官になることもできた。その中から、自分の意志でもって、選ばれた姿が今の自分である。今の境遇、今の性格、今の収入、今の友人、そういうすべては、自分の意志によって成り立っている。

最近やはり悩むことが多い。自分の収入、自分の境遇、自分の歩んだ道。それらは、一般の普通とは少し違う。まして、同郷、同窓の人たちと比べると、収入も違えば待遇も異なる。見劣りする。そんな自分にどんな未来が待っているのだろうか、どんな30代を歩んでいくのだろうか、そんなことを考えると、新年早々、すこし俯き加減な気持ちになってしまうのである。

他人と比べることに意味はない、自分の人生を自分の生きたいように歩めばよい。そういう綺麗な言葉は、理想論として自分の骨身に浸み込んではいるのだが、市井の人間である以上、俗世に身を置いている以上、「比べる」ということはどうしても目の前に現れる。それが、優位か劣位か、そんな単純なことが、自分にとって簡単に気分を左右させてしまう。大いに劣位である。自分の性格もそうだ。僕は弱い人間だ。弱いからこそ努力をしてきた。それが意味のあるものかは分からない。しかし、弱さを克服するためには努力しかないと思って生きてきた。自分にないピースを埋めるものが努力であった。

僕は何をするために生きているのか。僕はどうなりたいのか。そんなことを考える。それは、例えば10年後とか20年後とか、そういうとても先の未来ではない。明日、明後日、1か月後、そういう、手を伸ばせば届く位置にある未来。これをどうやって描いていくか。それを考えることを先送りにして、時間を浪費していないか。

今の自分の気分がすぐれないのは、それが原因かもしれない。今一度立ち戻って、未来を考えないといけない。明日はすぐ来る。一週間後もすぐ来る。そうして1か月が経ち、冬が過ぎ、春が来て、一年が巡り巡って、その分自分も年を取っていく。

 

人間関係なんて、どうでもいいことだ。自分が大切にしている人たち。その人たちとの良い関係を維持することが大事。その場その場の関係は、もちろんそれは重要だけれど、それ以上に重要なことはたくさんある。人に傷つけられたり貶められたりもする。自分がしっかりと目標をもって、そのために一日一日、自分がすべきことを明確にしていて、その日一日でできたこと、できなかったこと、それらを反省して、明日に生かす。それができていれば、それ以外のことは、些細なことだ。でもそれが明確でなければ、自分が何が重要で何をすべきでどうあらねばならないかが分からず、些末なことに気を取られ悶々として落ち込んでしまうのだ。

例えば自分が低い地位だからと言って、利用されやすいと言って、人としゃべることが苦手だからと言って、それらをどうするかなんて、ずっと考えてきた。自分の性格と、もう10年近く向き合ってきた。それでも性格は変わらなかったし変えることができなかった。変わったのは自分の考え方だけだった。考え方が変われば、性格も少し変わるかもしれない。人間の性格は、関係によって変わる。家、職場、上司と部下、先輩と後輩、親と子、友人、恋仲。すべてにおいて変わる。そして自分が一番しっくりくるのがどれか、本当の自分がどれか、分からなくなる。一方で、本当の自分などないのかもしれない。自分の在り方、それは、自分で変えようというものではなく、意図せず関係の中に落とし込まれていった結果、自分というものができている。遺伝×関係×環境なのかもしれない。新しい「関係」に飛び込むとき、自分が馴染めるか、自分がうまくいくか、とても不安だ。いつまでたっても不安。特に自分に何もなく素手で立ち向かわなければならないときは。

自分の性格と向き合って、それでずっとやってきた。もちろん細かいところは変わらなければいけない。「関係」において上手に立ち回れなかったら改善しなければいけない。しかし、他人の立ち回り方を自分と比較して、自分が落ち込むのは、諦念同様、やめなければいけない。今の自分は今の自分以上にはなれない。それに、今の自分以外のやり方は、頑張ってみても多分できない。それは、己の経験から立証されている。僕は、僕のやり方でしかできないし、僕のやり方は、たぶん他の人はできない。

苦しいときもある。つらいときもある。そういうときは、どうか自分を卑下しないでほしい。改善させることは大切だけど、現状を卑下してはだめだ。なぜなら、変わることは急にはできない。当面は自分は自分でしかない。そして、変わったことには立場も関係も変わりつつある。過ごしやすくなるかもしれない。そのためには、真面目に頑張ることだ。今日、昨日のたかだか数日の些細な出来事なんかで、くよくよしたり、めげたりしてはいけない。ぐっとこらえて我慢して、自暴自棄にならないで、明日やること、明後日やること、今年やることを見直して、自分にできることを、努力すること。それが大事だと思う。

最近思うこと

私が東京を離れて、いっしょに戦ってきた仲間とも離れ、ひとり地元に戻り、これまでの経歴を投げうって、再び一からやり直そうと決めて取り掛かって半年が過ぎ、ふと振り返ったとき、自分が、自分の下した決断に対して、まったく後悔をしていないかと自問すると、その答えは、どうなるのかと考える。

これまで一緒に仕事に励んできた同志が、いろいろな自分の可能性を信じて、みな様々な道を歩んでいるのを、最近では簡単にインターネットを使って知ることができる。彼らの新しい道が、きっと素晴らしいものであってほしいと願う。留学や子育てや新たなコミュニティーへの参加など、みんな自分が大切に思っていることをしているのを見ると、自分も頑張らなければならないと思う。

自分が新しい選択をする、これまでと全く異なる道に這入るということは、新たな人生を手に入れると同時に過去の延長戦にあったはずの人生を棄てるということでもある。棄てるということは簡単ではない。なぜならその選ばれなかった人生を遡って辿っていけば、その過程の苦労や喜びや、その後の人生の萌芽となるべき経験や、人とのつながりが、嘘偽りなく纏綿と連なっているからである。

新しい人生を歩む際には、その棄てられた人生で手に入れることができたかもしれない何かや責任を背負って進んでいく覚悟が必要だと考える。これまでのものはこれまでのものと、完全に切り離してしまえば、これまでのものは、ほとんど無かったに等しいと同様の経験となってしまう。自分が新しい道を選んだならば、その道が正しいかどうかということはわからないのだから、進んでいくしかないのだけれど、進むにあたっては、過去を振り返って懐古趣味に走ったり、慢心したりエゴに駆られたりすることなく、かと言って過去をすべて放棄するのではなくて、これまでの人生で得てきたものを、それらすべてを背負って、決して振り返ることなく、しかし忘れることなく、その重さを意識しながら進んでいくことが大切だ。それが、自分のできるせめてもの自分への償いになるのだと思う。

 

無になることなどなかなかできない。どうしたって周りの優秀さに引けを取ることはあるし、悔しいこともあれば、自分の選択を恨んだりすることだって出てくる。隣の家の芝生は青く見えるし、自分が利用されているのではないかとか、自分がふがいないとか、いろいろな負な考えがぐるぐると頭の中を渦巻いて離れなくなってつらくなる時もある。そういう感情が自然と溢れてくるのを、無視して何も感じなくなることは、まだ自分にはできそうもないし、これからも、いろいろな人と出会っていろいろな環境で立ち振る舞わなければならないことを考えると、俗世にあって完全に無の境地に浸ることは不可能と思う。

自分にできることは、そうした感情を、自然に溢れてきてしまう不可避なものと認めて、されどそうした感情に流されることなく流してしまうことだけだ。感情に自分の人生の時間を支配されることなく、嫌なことや嫌な気分に己を預けることなく、それはそれとして、どこかに行ってしまうまで待つ。辛抱といえばそうかもしれない。渦巻く激しい感情の中にあって心の中を平静に保つということのいかに難しいことか。

仕事だって同じかもしれない。僕は、周りがどうあれ、自分の納得のいくところまで考えないと気が済まない。自分が納得いくところまで考えて、初めて自分の考えを述べることができる。適当であったり神経質であったり、自分のことが良く分からないが、自分が大切にしているものがたぶんあるということは、何となく分かる。

かつての時のように、大学院のときのように、極端に猛烈で寝る間を惜しんで何かをするという体力は、もうあまりないしやりたいとも思わない。あの時は、何が大切で何をやらなければいけないか、分からないままに、努力それ自身を自分の目的にしてしまっていた。頑張ること、頑張りすぎることを、自分の目的にし、努力それ自身を意義にしてしまっていた。そうやって自分を追い詰めてしまうことは良くない。努力はあくまで手段であって、目的ではない。努力を目的にしてしまうと、他人にも同様の厳しさを以て接してしまう。他人を許せなくなってしまう。それは自分を追い詰めてしまうだけで、また孤立してしまって、八方ふさがりになってしまう。努力は何かの目的あってのものだ。それ自身を美化してはならない。

 

それでもたぶん今の自分は、周りから見れば無意味に頑張っているように見えるかもしれない。なぜそこまでやるのかと思われるのかもしれない。それは自分が好きだからやっているのであって、やらないと気が済まないという性質のものであって、他人と比べてどうのとか、そういうものではない。だから、それが自分にとっての自然なのかもしれない。僕はそれが、己の器の大きさであって、その人の生きざまだと思う。自分が振り返って自分の行動を見たとき、そのやり方がそのまま生き様であって、自分で納得できるかを考えたとき、納得できなければ後悔すると思う。だから、後悔のないよう、自分の納得できるところまでやるということが、自分にとっての生き方なのだろう。

色々な人生の道があって、張り巡らされた道筋の一本一本の正誤を判断することは、あまり意味がないと思う。同様に、過去を振り返ったり未来を見すぎたりして自分の歩んできた道を評価することもあまりしたくない。そうではなくて、どのような道であっても、その人にしかできないやり方があって、それがただただその人の生きざまであり人生である。道の過程に苦悶があって壁にぶつかって、その人の姿勢が試されて、それに真面目に己のやり方で向き合っていって、一つ一つ超えていけば、少しづつ高いところに行ける気がする。そうして目の前のことに取り組んでいけば、過去を悔んだり周りをうらやんだりしている暇はないはずだ。やるべきことは目の前にあって、それ以外にないのだから。だから、目の前の道を信じて、とにかく牛のように進んでいくこと。これが僕に今できる最善の方法なのだと、そう信じないといけないと思う。

みなさんこんにちわ。と、見えないみなさんに挨拶をしてみます。本ブログをもし通りすがりに読んでいただいている方への挨拶です。

これまでブログも何もしたことがないので、どうやって始めたら良いのかわからないまま、まずはだらだらと書いています。退屈になる前に前段は切り上げます。

 

ブログのタイトルにもある通り、生きづらい、という感情を普段持って生きているひとが、少しでもつながったり、心の気休めになればいいなということで、ブログをはじめてみました。また、自分自身がこれまでの生きづらい人生を辿ってきた経験を、少しづつこうして出していくことが、何かのためになれば、ひとのためになれば、という気持ちもあります。

 

ぼくはもう、30歳になります。

 

30歳になると、まわりの友達は、だんだんと結婚して、こどもができて、家族ができて、余裕があれば家を買って、あたらしい生活をスタートしている年ごろです。

ですがぼくは、まだ結婚もなく、当然こどももおらず、弱い頭で何とか仕事をして、朝起きて、夜寝る生活を、これまでと本当に変わらず送っています。

たまに、時間があるときに、家でひとりでお酒を飲んでいると、同世代に完全に出遅れてしまったな~、と思ったりもします。

ぼくは根がまじめなのか、それとも偽善者なのかわかりませんが(笑)、昔から悪いことをできない性質で、だから勉強とか読書とか、少しでも何かこう、まじめなことをしないと気が済まない感じで。その分、周囲との温度差に悩むことも多くありました。でも、それだけ頑張っても、彼女ができるわけでもなく、イケメンになるのでもなく、という感じです(別にそのためにまじめなわけではないですが)。

 

11月8日

何かを書くということは、書きたいという欲求から来るのではない。書かなければならないという焦燥か不安か、そういう負の気持ちが書くことに走らせる。自己顕示欲ではなくひどい傷口のかさぶたをいじり続けて染み出してきた膿。青竹を炙って滲む油であり、底知れぬ沼の汚泥が私の作物である。凝集された苦悩を吐き出さんがための行為こそ私にとって書くということであり、生きるために吐き出す術を持たない私の唯一の自己表現である。

人間にとって自殺とは何か。それは生きようとする欲望が屈折した方向に突進した先にある。一方で、絶望的に打ちのめされている人間にあってはささやかな救いでもある。自分に未来も希望もない人間にとっては人生から助かる光差す道であり、そこまでの絶望を感じていない人間にとってはそうして自尽した人間がいるという事実が明るい希望溢れる社会の人波の中での慰藉となるからだ。

人間ならば誰しも幸福を願う。又公平に幸福が分け与えられているべきと願う。しかしそうではないと気付かされたとき、後ろを向いて嘆き苦しむ、こんな筈ではなかったと。何が悪かったのか分らないまま、前を向くこともできず、しかし進まなければならない。

痛み。人を導く神は私たちに喜びも与え苦しみも与える。それでも信じるしかない。人が変わるのは、喜びによってではなく、痛みによってである。苦しみの中にあって人間は人間の進むべき道を模索することができる。なんというむごいことか!それでも進むのが私たち人間の宿命なのかもしれない。